『呪術廻戦』という作品において、圧倒的な強さとカリスマ性で「呪いの王」として君臨する両面宿儺。
物語の序盤で主人公・虎杖悠仁の肉体に受肉して以来、その存在は常に物語の根幹にあり、多くの謎に包まれています。
特に、虎杖の体に浮かび上がる紋様や、伏黒恵の肉体を得てから見せた1000年前の異形の姿など、宿儺の本当の姿については、ファンの間で様々な考察が飛び交っています。
この記事では、宿儺の本当の姿とは何なのか、そのモデルは実在するのか、そして「シャム双生児」という有力な説から、彼の過去や死因、人物像に至るまで、あらゆる角度から徹底的に解説していきます。
宿儺の本当の姿とは?その正体に迫る
両面宿儺は実在した?日本書紀の記述
結論として、『呪術廻戦』に登場する両面宿儺には、実在した伝承上のモデルが存在します。
その存在が記されているのは、日本の正史である『日本書紀』です。
仁徳天皇の治世(4世紀頃)の記述に、「両面宿儺」という名の人物が登場します。
『日本書紀』によると、彼は飛騨国(現在の岐阜県北部)に現れたとされています。
その姿は「一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ逆を向いていた。手足は各四本あった」と記されており、まさに異形そのものです。
さらに、四本の手で二張りの弓矢を操り、皇命に従わず民衆から略奪を繰り返す「凶賊」として描かれています。
最終的には、朝廷から派遣された武将・武振熊(たけふるくま)によって討伐されたとあります。
この「二つの顔と四本の腕を持つ」「朝廷に逆らう強力な存在」という特徴は、作中の宿儺の本当の姿や「呪いの王」という設定に、色濃く反映されていることがわかります。
一方で、宿儺がいたとされる岐阜県の飛騨・美濃地方には、全く異なる伝承が残っている点も非常に興味深いです。
日本書紀(中央政府の記録) | 飛騨・美濃地方の伝承 | |
宿儺の評価 | 皇命に逆らう「凶賊」「逆賊」 | 地域を守った「英雄」「豪族」 |
主な逸話 | 民衆から略奪を働いた | 毒龍や鬼を退治した |
信仰 | 討伐されるべき悪 | 寺社の創建に関わった神仏の化身 |
このように、中央政府の記録では「悪」とされ、地元では「善」として語り継がれる二面性を持った存在、それが史実における両面宿儺です。
『呪術廻戦』の作者である芥見下々先生は、このうち「逆賊」としての側面を最大限に増幅させ、作中のキャラクターを創り上げたと考えられます。
呪いの王・宿儺はもともと人間だった
多くの読者が驚くかもしれませんが、宿儺は生まれながらの呪霊ではなく、もともとは普通の人間でした。
公式ファンブックにおいても「元人間」であることが明言されています。
彼は呪術全盛期と呼ばれた約1000年前の平安時代に、一人の人間として生を受け、類まれなる呪術師として活動していました。
呪霊とは、人間の負の感情が漏れ出して形になった存在です。
そのため、彼らには人間的な思考の根源や、複雑な過去というものが基本的に存在しません。
しかし、宿儺は異なります。
人間であったがゆえに、彼には彼自身の哲学や価値観、そして人間性を捨て「呪いの王」へと至るまでの過程がありました。
人間としての生を経験しているからこそ、彼は人間の心の脆さや、術師たちの思考の癖を熟知しています。
これが、彼の戦闘における圧倒的な強さや、他者を意のままに操る狡猾さの源泉の一つとなっているのです。
彼がなぜ人間でありながら、四本の腕と二つの顔という異形の姿を持つのか。
そして、どのようにして人間をやめ、呪いの王へと変貌したのか。
その謎を解く鍵が、次にご紹介する「シャム双生児説」に隠されているのかもしれません。
有力説「両面宿儺はシャム双生児」
宿儺の異形の姿と、その孤独な人物像の根源を説明する上で、現在最も有力視されているのが「シャム双生児説」です。
シャム双生児とは、現在では結合双生児と呼ばれる、体が結合した状態で生まれてくる双子のことです。
この説が多くの読者から支持されるのには、いくつかの説得力のある根拠が存在します。
根拠①:異形の姿との合致
まず最も直接的な根拠が、彼の「四本腕・二つ顔」という本当の姿です。
これは結合双生児の形態の一つと酷似しており、「元人間」である彼が後天的に腕や顔を増やすよりも、生まれつきの身体的特徴であったと考える方が自然です。
根拠②:孤独と他者への不理解
宿儺は、他者の感情、特に「愛」を「くだらん」と一蹴し、他者を理解しようとする素振りを一切見せません。
この極端なまでの孤独と他者への無関心は、常に物理的に「もう一人」がすぐそばにいながら、誰とも精神的に繋がることができなかったという、彼の原体験から来ているのではないかと推測できます。
根拠③:万(よろず)の最期の言葉
平安時代に宿儺に執着していた術師・万は、宿儺に敗れて死ぬ間際に「ああ…!孤独!孤独!あなたを孤独にしたかった!!」という言葉を叫びました。
このセリフは、宿儺がもともと「孤独ではなかった」可能性、つまり、彼にはかつて「片割れ」がいたことを強く示唆していると解釈できます。
これらの根拠から、「宿儺は生きるため、あるいは強さを得るために、自身の片割れを喰らったのではないか」という、非常にグロテスクな考察が生まれます。
忌み子として生まれた双子が、生存競争の果てに片方を喰らい、その罪悪感と業によって人間性を捨て、呪いの王へと変貌した。
この説は公式に語られてはいませんが、彼の圧倒的な呪力量や、料理にまつわる術式(解、捌、伏魔御廚子)、そして根源的な孤独を説明する上で、非常に説得力のある仮説と言えるでしょう。
宿儺が呪いの王になったきっかけとは?
宿儺が単なる強力な術師から「呪いの王」へと変貌した「きっかけ」は、一つの出来事ではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果だと考えられます。
そのプロセスは、彼の生まれ、才能、そして確立された哲学に分解できます。
第一に、その特異な生まれです。
前述の「シャム双生児説」が正しければ、彼は生まれつき常人とは違う肉体を持っていました。
当時の社会において、そのような姿は「忌み子」として扱われ、周囲から疎外される原因になった可能性が非常に高いです。
これが彼の孤独の原点となったのかもしれません。
第二に、彼が持っていた圧倒的な呪術の才能です。
彼は疎外される一方で、誰よりも呪術を扱う才能に恵まれていました。
自分を否定する周囲の人間を、力でねじ伏せることができる絶対的な強さ。
この力が、他者と協調するのではなく、他者を支配するという彼の生き方を決定づけました。
そして第三に、彼自身の哲学の確立です。
周囲からの疎外と、己の絶対的な才能という二つの要素から、彼は「他者を理解することを諦め、己の快・不快のみを世界の基準とする」という、極めて自己中心的な哲学を築き上げました。
自分以外の全てを格下の存在と見なすことで、彼は自身の尊厳を保ったのです。
これらの「身体的特異性」「社会的疎外」「圧倒的才能」「哲学の確立」という要因が積み重なり、彼を人間性の枠から解き放ち、ただひたすらに己の力を振るう「呪いの王」へと変貌させる「きっかけ」になったと考えられます。
宿儺の本当の姿から紐解く謎と人物像
両面宿儺を封印した人はいないという事実
「宿儺を封印したのは誰か?」という疑問は非常によく聞かれますが、これは作中の設定を正確に理解すると、問いそのものが成り立たないことがわかります。
結論から言うと、1000年前に特定の誰かが宿儺を倒し、封印したという事実はありません。
呪術全盛期であった平安時代、当時の術師たちは文字通り総力を結集して宿儺に挑みました。
しかし、その結果は「敗北」。
誰一人として彼を殺すことはおろか、打ち負かすことすらできなかったのです。
この事実は、現代最強の五条悟ですら「少し手こずるだろう」と認めるほどで、宿儺の強さが当時からいかに規格外であったかを物語っています。
では、なぜ彼は現在「封印」されている状態だったのでしょうか。
それは、宿儺が死んだ後の出来事に理由があります。
彼は術師たちに殺されたわけではなく、その死後、亡骸があまりに強大な呪力を帯びていたために消滅しませんでした。
そして、彼の魂と術式が宿ったまま、20本の指が「特級呪物」としてこの世に残ったのです。
当時の術師たちにできたのは、この危険すぎる呪物を日本各地に分散させ、それぞれに結界を張って個別に「封印」することだけでした。
つまり、「宿naという一個人を封印した」のではなく、「宿儺の死後に残った遺物(指)を封印した」というのが正しい経緯です。
この封印作業は、当時の術師たちにできる精一杯の対処であり、未来に大きな災厄の種を残すことになりました。
宿儺の1000年前の死因は計画的な呪物化
宿儺は平安の術師たちに殺されたわけではない、という事実は前述の通りです。
では、彼の1000年前の「死因」とは一体何だったのでしょうか。
病死や寿命だった可能性もゼロではありませんが、作中の描写や彼の性格から最も可能性が高いと考えられるのが、「自らの意思による計画的な呪物化」です。
これは、彼が自身の死を他者から与えられるものではなく、自らの計画の一部として能動的に選んだという説です。
その目的は、「永続性」と「未来への娯楽の確保」であったと推測されます。
人間としての肉体には寿命がありますが、自身の魂と術式を20本の指に分割して特級呪物となることで、理論上半永久的に存在し続けることが可能になります。
彼は死すらも超越する手段として、自らを呪物に変えるという前代未聞の方法を選んだのです。
そして、それは未来への壮大な「暇つぶし」の計画でもありました。
1000年という長い時を経て復活し、自分が生きていた時代とは全く異なる世界の、未知なる強者たちと戦う。
彼にとって、これほど心躍る娯楽はなかったのかもしれません。
このように考えると、宿儺に明確な「死因」という概念は存在せず、彼の死は「存在形態の移行」に過ぎなかったと言えます。
他者に敗れることなく、自らの意思で死を選び、未来永劫にわたって自身の存在を刻み込む。
これこそが、彼の「王」としての傲慢さと矜持を最もよく表しているエピソードと言えるでしょう。
「両面宿儺は女好き」という噂の真相
宿儺の圧倒的なカリスマ性からか、一部で「両面宿儺は女好き」という噂が囁かれることがありますが、原作の描写を忠実に読み解く限り、この説は完全に否定されます。
彼の価値基準は、性別では一切なく、ただ一つ「強さ」と「自分を楽しませるか否か」にしかありません。
宿儺が興味や関心を示すのは、常に自分と渡り合える可能性のある「強者」だけです。
五条悟や鹿紫雲一との戦いを至上の喜びとし、伏黒恵が持つ「十種影法術」の可能性に目をつけました。
一方で、弱い人間は男女問わず「虫けら」「猿」と呼び、一片の興味も示しません。
作中で彼が関わった女性キャラクターへの態度を見ても、それは明らかです。
平安時代に自分に恋焦がれていた術師・万に対しては、その愛を「くだらん」「つまらん」と一蹴し、術式に一定の評価は与えつつも容赦なく殺害しました。
そこに異性への特別な感情はなく、ただ強者に対する冷徹な評価があるだけです。
また、渋谷事変では、部下である裏梅から「女子供が湧いておりますが」と報告された際、何の躊躇もなく「鏖殺(おうさつ)だ」と命じました。
このシーンは、彼が女性や子供に対して一切の慈悲を持たず、むしろ邪魔な存在としか認識していないことを示しており、「女好き」とは真逆の性質を表しています。
ではなぜこのような噂が立つのかというと、おそらく彼の「王」という立場や、絶対的な強者であることからくる二次創作的なイメージが先行しているためでしょう。
しかし、原作に準拠するならば、宿儺は「女好き」ではなく、性別を問わず、己の快・不快のみで他者を判断する、究極の快楽主義者であると断言できます。
両面宿儺の最後はどうなる?結末を考察
このキーワードは、物語の結末に直結するため、現時点(2025年6月時点)では誰も答えを知りません。
しかし、彼の「最後」が『呪術廻戦』という物語のクライマックスになることは間違いないでしょう。
現在、物語は「人外魔境新宿決戦」の真っ只中にあり、現代の最強術師たちが宿儺一人に総力戦を挑んでいます。
現代最強の術師・五条悟との死闘では、領域展開の応酬の末、十種影法術を応用した「世界を断つ斬撃」で五条を殺害するという衝撃的な結末を迎えました。
その後も、鹿紫雲一、日車寛見といった強者たちを次々と葬り、乙骨憂太や禪院真希、そして主人公の虎杖悠仁を中心とした高専術師たちと満身創痍の死闘を繰り広げています。
宿儺がどのような結末を迎えるかについては、いくつかの考察がなされています。
最も王道な展開は、やはり主人公であり、宿儺の元・器であった虎杖悠仁がとどめを刺すというものです。
虎杖の魂を捉える打撃や、宿儺の器であった経験が、討伐の鍵となる可能性があります。
また、現在の器である伏黒恵の魂が、内側から宿儺の動きを阻害し、討伐の突破口を開くという展開も期待されています。
あるいは、宿儺が理解不能なものとして切り捨ててきた「愛」や「他者のための自己犠牲」といった概念によって敗れることで、物語のテーマが完結するという考察も根強いです。
いずれにせよ、呪いの王・両面宿儺の「最後」は、『呪術廻戦』が描いてきた「呪いとは何か」という問いに対する、一つの答えを示す重要な場面となるでしょう。
まとめ:宿儺の本当の姿と呪いの王たる所以
- 宿儺の本当の姿は四本の腕と二つの顔を持つ異形である
- その姿のモデルは日本書紀に記された実在の伝承である
- 宿儺は呪霊ではなく、もともとは平安時代の人間であった
- その特異な姿から「結合双生児」であったという説が有力である
- 1000年前に特定の誰かに封印されたという事実はない
- 彼の死は他殺ではなく、自らの意思による計画的な呪物化であった
- 彼の価値基準は「強さ」であり「女好き」という事実は一切ない
- 己の快不快のみを絶対とする究極の快楽主義者である
- 虎杖悠仁が指を喰らったことが全ての物語の始まりであった
- 彼の最後がどうなるかは、物語最大のクライマックスとして描かれる