宿儺と真人の笑いについて解説!二人の呪いの笑いを徹底比較考察

『呪術廻戦』は、人間の負の感情から生まれる「呪い」と、それを祓う「呪術師」の壮絶な戦いを描いた物語です。

中でも、読者に強烈な印象を残すのが、”呪いの王”両面宿儺と、特級呪霊・真人の存在でしょう。

彼らの放つ「笑い」は、単なる感情表現に留まりません。

宿儺が特徴的な「ケヒッ」という笑い方で見せる傲慢さ、渋谷事変での「鏖殺だ」という言葉と共に浮かべた愉悦の笑み。

一方で、真人が見せる無邪気で残虐な笑い。

そして、作中屈指の名場面として知られ、宿儺が真人を嘲笑するシーンは、そのインパクトからネット上で「ゲラゲラ コラ」として広まるほどの話題を呼びました。

この記事では、「宿儺 真人 笑う」というテーマを軸に、二人の呪いが放つ「笑い」の本質、そして伝説のシーンに隠された真実の意味を、原作の描写や正しいセリフを基に徹底的に解剖していきます。

目次

宿儺と真人が笑う意味の違いを徹底解説

宿儺の笑い方「ケヒッ」に込められた意味

宿儺のキャラクターを象徴する笑い方、それが「ケヒッ」という独特な擬音です。

この短い一音には、彼の本質である「絶対的な強者としての傲慢さ」が凝縮されています。

宿儺の行動原理は、ただ己の快・不快のみです。

他者の命や感情、社会のルールなど、自分以外のすべてを些末なものと見下しています。

この価値観が、「ケヒッ」という笑いに多層的な意味合いを与えているのです。

一つ目は、「嘲り」です。

例えば、主人公・虎杖悠仁の抱く理想論や甘さに対して、宿儺はしばしば「ケヒッ」と鼻で笑います。

これは、自分とは全く異なる価値観を持つ存在への、純粋な侮蔑と小馬鹿にする感情の現れです。

二つ目は、「興味と愉悦」です。

宿儺は、基本的に他者へ無関心ですが、ごく稀に自身の興味を引く存在が現れます。

作中では、伏黒恵がその対象です。

伏黒の術式やそのポテンシャルに触れた際に見せる「ケヒッ」という笑いは、面白い玩具を見つけた子供のような好奇心と、それをどう壊して楽しもうかという残酷な期待が入り混じった、宿儺ならではの愉しみ方と言えるでしょう。

そして三つ目は、「状況の支配」を意味します。

たとえ器である虎杖がどれだけ絶望的な窮地に陥ろうとも、宿儺は常に余裕を失いません。

むしろ、その状況を特等席で観戦する見世物として楽しんでいるのです。

内側から聞こえる「ケヒッ」という笑い声は、すべてが自分の掌の上にあるという絶対的な自信と、状況を完全に支配していることの証明に他なりません。

アニメ版では、声優・諏訪部順一氏の卓越した演技が、この「ケヒッ」という一音に深みとカリスマ性を与え、宿儺というキャラクターの魅力を一層際立たせています。

宿儺の「鏖殺だ」に見る純粋な破壊の愉悦

宿儺の「笑い」が、最も純粋な形で発露したのが、渋谷事変で見せた大量破壊シーンです。

この場面を象徴するセリフ「鏖殺だ」は、彼の本質が「純粋悪」であることを読者に改めて叩きつけました。

このシーンの背景には、特級呪霊・陀艮との戦闘で瀕死となった伏黒恵の存在があります。

宿儺は自らの興味の対象である伏黒を死なせないため、虎杖の肉体を乗っ取り顕現します。

そして、その場にいたもう一体の特級呪霊・漏瑚を、まるで赤子のように弄び、圧倒的な力の差を見せつけました。

そのクライマックスが、領域展開「伏魔御廚子」の発動です。

半径200メートル弱に及ぶ広範囲に展開された領域は、建造物、人間、呪霊を区別することなく、無差別に斬り刻む「神業」でした。

自らが振るう力によって、世界のすべてが塵芥と化していく。

この凄惨極まりない光景を前に、宿儺は恍惚とした表情で静かに笑みを浮かべ、「鏖殺だ」と呟きます。

「鏖殺」とは、皆殺しや根絶やしを意味する言葉です。

宿儺にとって、この行為は戦闘や殺戮という目的のあるものではありません。

自身の力が世界に顕現し、すべてを破壊し尽くす光景そのものが、彼にとっての至上のエンターテインメントなのです。

この時の笑みは、普段の「ケヒッ」という嘲りを含んだものではなく、心から湧き上がる全能感と破壊の愉悦に満ちた、静かで、しかし何よりも恐ろしいものでした。

このシーンは、宿儺がなぜ”呪いの王”と呼ばれるのか、その理由を読者の脳裏に焼き付けました。

彼の「笑い」は、破壊と殺戮そのものを愛でる、根源的な悪の顕現なのです。

虎杖の「本音」を引き出した真人の無邪気な悪意

宿儺とは対照的な「笑い」を持つのが、特級呪霊・真人です。

彼の笑いは、子供のような「無邪気さ」と「残虐性」が同居しており、その歪さが読者に生理的な嫌悪感と恐怖を与えます。

真人は、人間が人間を憎み恐れる負の感情から生まれた呪霊です。

彼の術式「無為転変」は、触れた人間の魂の形を自在に操り、肉体を醜く変形させるという恐ろしい能力です。

真人の最大の特徴は、自身の行いを「悪」だと認識していない点にあります。

彼にとって人間は、観察対象であり、好奇心を満たすための玩具に過ぎません。

魂を弄り、その反応を楽しむことは、彼にとっては「遊び」なのです。

だからこそ、彼の非道な行いには、常に楽しそうな「笑い」が伴います。

この無邪気な悪意が最も顕著に現れたのが、虎杖の友人である吉野順平を改造人間に変えたシーンです。

虎杖の目の前で、彼の心を折るためだけに友人を弄び、絶望の淵に突き落とす。

この時、真人は心から楽しそうに笑いながら虎杖を挑発しました。

この行為は、虎杖の中にあった「正しい死」という理想や、呪いへの甘い認識を根底から覆すきっかけとなります。

仲間たちの死を弄ぶかのような真人の態度に、虎杖の怒りは頂点に達しました。

そして彼は、自らの内から湧き上がる、純粋な殺意を自覚します。

それが、「今まで俺の口から出た言葉は全て嘘だったんじゃないかと思えるくらい腹の底から出た本音」「オマエを殺す」というセリフに集約されています。

真人の「笑い」に満ちた悪意は、結果として虎杖から「笑い」を奪い、彼が抱いていた建前をすべて剥ぎ取り、剥き出しの「本音」を引きずり出すに至ったのです。

「こいつらはどこまで行っても呪いなんだ」という悟り

虎杖悠仁が渋谷事変で口にした「こいつらはどこまで行っても呪いなんだ」というセリフは、彼の精神的な成長と変貌を示す、極めて重要な言葉です。

この一言は、彼が呪いという存在の本質を、身をもって理解した「悟り」の瞬間でした。

物語の序盤、虎杖は祖父の遺言である「オマエは強いから人を助けろ」という言葉を胸に、「正しい死」へ導くことを信条としていました。

その考えの根底には、たとえ呪いであっても、対話の可能性や、何か理由があるのかもしれないという、ある種の甘さや期待があったかもしれません。

しかし、真人の行動は、その淡い期待を無慈悲に打ち砕きます。

真人は、改造人間を使って一般市民を無差別に殺戮し、人々が恐怖に歪み、逃げ惑う様を、まるで面白いショーでも見るかのように無邪気に笑い、楽しんでいました。

この光景を目の当たりにした虎杖は、確信したのです。

彼ら(呪い)の「笑い」は、人間が喜びや親愛を分かち合うための「笑い」とは、決して交わることのない、根本的に異質なものである、と。

呪いの「笑い」の異質性

両面宿儺の笑い真人の笑い
本質捕食者の笑い実験者の笑い
対象への感情嘲り、愉悦、無関心好奇心、遊び、無関心
目的自身の快楽、力の誇示好奇心の充足、存在証明
人間との関係性絶対的な支配・被支配観察・被観察(玩具)

このように、宿儺の笑いが他者の絶望をエンターテインメントとして消費する「捕食者」のそれである一方、真人の笑いは他者の苦痛を好奇心で観察する「実験者」のものです。

どちらの笑いも、他者の尊厳を踏み躙ることを前提としており、そこには人間的な倫理観や共感は一切存在しません。

だからこそ虎杖は、「こいつらはどこまで行っても呪いなんだ」と断じ、彼らを対話の対象ではなく、ただ「祓うべき存在」として明確に定義し直す必要があったのです。

この悟りは、虎杖をより過酷な戦いへと駆り立てる原動力となると同時に、彼の心を蝕む呪いともなっていきます。

なぜ宿儺は真人を笑う?伝説のシーンを深掘り

「惨めだなぁ」と笑えなくなった真人の末路

それまで人間の感情を弄び、その絶望を嘲笑い続けてきた真人にも、ついに「笑えなくなる」瞬間が訪れます。

渋谷事変の終盤、彼は虎杖悠仁と東堂葵によって、心身ともに追い詰められていきました。

この結末は、彼の存在が内包していた矛盾を浮き彫りにする、皮肉に満ちたものでした。

真人の敗北の決定打となったのは、虎杖が放った「黒閃」です。

覚醒した虎杖の黒閃は、真人の魂の輪郭を明確に捉えました。

魂を弄ぶことを本質とする真人が、逆に自身の魂の核を直接殴打されたのです。

これにより、彼は初めて明確な「死の恐怖」を味わうことになります。

それまで人間を観察し、弄ぶ側にいた彼が、今度は完全に「狩られる側」に回った瞬間でした。

恐怖に顔を歪ませ、命からがら逃げ惑う真人の姿は、それまでの傲慢で余裕に満ちた彼のキャラクターからは想像もできない無様なものです。

他者の命や尊厳を「何の脈絡も理由もなく」奪い、それをせせら笑ってきた彼自身が、今度は自らの尊厳をズタズタに引き裂かれ、ただ生き延びるためになりふり構わず逃げ惑う。

この上なく皮肉で、そして何よりも「惨め」な光景です。

人間の心を否定し続けてきた呪いが、最後には人間が最も嫌う「惨めさ」と「恐怖」に支配されるという結末は、物語のカタルシスを生むと同時に、真人が結局は「人間の負の感情から生まれた」という出自から逃れられなかったことを示唆しているのかもしれません。

宿儺が真人をあざ笑うシーンの圧倒的な格の違い

物語の核心部分、宿儺が真人と対峙するシーンは、二人の呪いの間に存在する「絶対的な格の違い」を、読者に強烈に印象付けました。

この場面は、単なる強者と弱者の対決ではなく、両者の間にある越えられない壁を描いています。

虎杖と東堂に追い詰められ、死を目前にした真人は、最後の悪あがきとして逃走を図ります。

その先にいたのは、一連の事件の黒幕である偽夏油(羂索)でした。

しかし、助けを求めるよりも早く虎杖に追いつかれ、万策尽きた真人は、目の前の虎杖に「無為転変」を使おうとします。

一縷の望みをかけたこの一手が、彼の運命を決定づける最悪の選択でした。

真人の手が虎杖に触れた瞬間、彼が触れたのは虎杖の魂ではありませんでした。

その奥に鎮座する、”呪いの王”両面宿儺の魂に触れてしまったのです。

主導権を奪った宿儺は、状況を理解できずに呆然とする真人に対し、冷ややかに「ケヒッ」と笑い、こう言い放ちます。

「身の程を弁えろ 痴れ者が」

この言葉は、真人がこれまで散々人間に向けてきた傲慢さそのものを、何倍にも増幅させて彼自身に突き返す、痛烈なカウンターです。

自分を「真の人間」と称し、他の呪霊とは違う特別な存在であるかのように振る舞ってきた真人のプライドは、この一言で完全に粉砕されました。

“呪いの王”から見れば、人間の感情から生まれた特級呪霊の浅はかな行動など、嘲笑の対象でしかない。

このやり取りは、二人の間に横たわる、決して埋まることのない絶対的な「格」の違いを、何よりも雄弁に物語っています。

「呪術廻戦 ゲラゲラ コラ」を生んだ大爆笑

ここで、「宿儺が真人を大笑いした」という情報や、それを元にした「ゲラゲラ コラ」について解説します。

結論から言うと、原作において宿儺がこの場面で「ゲラゲラ」と腹を抱えて大笑いした事実はありません。

彼の反応は、あくまで「ケヒッ」という冷笑と、絶対的な上位者としての冷徹な宣告でした。

しかし、このシーンが放つ圧倒的なインパクト、つまり”呪いの王”が格下の呪霊の愚かな行動を冷ややかに、しかし心の底から見下し嘲笑する構図が、ファンの間で強烈な印象を残しました。

この宿儺の嘲笑が、ファンの創作意欲を刺激し、「もし宿儺がこの状況で本気で大笑いしたら」という想像から、宿儺が様々な対象を「ゲラゲラ」と嘲笑するコラ画像(ミーム)が生まれ、ネット上で大流行したのです。

つまり、ミームの元ネタではありますが、宿儺自身が笑ったわけではない、という点が重要なポイントです。

実際には、宿儺は真人にこう続けています。

「だが案ずるな。俺とお前は、共に腹の底から小僧を嗤った仲だ。一度は許す。二度はない」

このセリフこそ、宿儺の恐ろしさの本質を示しています。

彼は真人の愚行を断罪しつつも、「虎杖を笑った仲」という、彼独自の気まぐれな理由で一度は見逃すのです。

この予測不可能な行動原理と、生殺与奪の権を完全に握っている絶対的な支配者の態度は、単なる暴力よりも深い恐怖を真人に、そして読者に与えました。

今まで俺の口から出た言葉は全て嘘だったかのような本音

ここで再び、虎杖の視点に戻ってみましょう。

「今まで俺の口から出た言葉は全て嘘だったんじゃないかと思えるくらい腹の底から出た本音」

このセリフは、真人の悪逆非道によって、虎杖が抱いていた理想や建前が完全に崩壊し、剥き出しの殺意だけが残ったことを示す、彼の魂の叫びです。

物語開始当初の虎杖は、祖父の「人を助けろ」という遺言を行動原理としていました。

彼は「正しい死」とは何かを常に自問し、たとえ死刑が確定している自分であっても、その命を賭して誰かを救うことに意味を見出そうとしていました。

しかし、真人の存在は、その純粋な理想を徹底的に破壊します。

目の前で友人を弄ばれ、尊敬する先輩・七海建人を嘲笑うかのように殺害される。

これらの経験は、虎杖の精神を限界まで追い込みました。

そして彼は、これまで自分が口にしてきた「人を助ける」や「正しい死」といった言葉が、まるで上辺だけの嘘だったのではないかと感じるほどの、根源的な怒りと殺意に支配されます。

「オマエを殺す」

このシンプルな言葉こそが、あらゆる建前を剥ぎ取られた虎杖の、唯一にして絶対の「本音」となったのです。

もはやそこに「正しい死」へのこだわりはなく、ただ純粋に、目の前の呪いを祓う(殺す)ことだけが目的となりました。

これは、主人公としての大きな変貌であり、彼が「呪いを殺す機械」へと一歩踏み出してしまった瞬間でもあります。

真人が無邪気な「笑い」をもって人の心を破壊する呪いであるならば、この虎杖の「本音」は、その笑いに対する、人間からの唯一にして最大の反撃の狼煙だったと言えるでしょう。

まとめ:宿儺が真人を笑う理由と二人の呪いの本質

  • 宿儺の笑い方「ケヒッ」は傲慢さ・嘲り・愉悦の象徴である
  • 「鏖殺だ」のセリフは宿儺の純粋な破壊衝動と愉悦を示す
  • 真人の笑いは子供のような無邪気さと残虐性が同居したものである
  • 真人の悪意は虎杖から「オマエを殺す」という純粋な本音を引き出した
  • 「こいつらはどこまで行っても呪いなんだ」は虎杖が呪いの本質を悟った言葉である
  • 宿儺は真人を「大笑い」したのではなく、「ケヒッ」と冷ややかに嘲笑した
  • 宿儺が真人を嘲笑した理由は、両者の間に絶対的な格の違いがあるからである
  • 宿儺は「一度は許す」と気まぐれを示し、絶対的な支配者としての恐怖を見せつけた
  • 宿儺の嘲笑シーンのインパクトが「ゲラゲラ コラ」というネットミームを生み出した
  • 宿儺と真人の「笑い」は人間とは決して相容れない価値観の証明である
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次